大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和48年(ワ)2699号 判決

原告

新井美登里

ほか五名

被告

株式会社ジヤパレン

ほか一名

主文

一  被告両名は各自、原告新井ふくに対し金一、〇八五万四、八六〇円及び内金一、〇〇五万四、八六〇円に対する昭和四八年六月二三日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を、原告新井美登里、同新井まゆみ、同新井靖に対し各金七四九万六、〇六六円及び内金六九九万六、〇六六円に対する昭和四八年六月二三日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を、原告新井勇、同村山みさ子に対し各金二〇万円及び内金一八万円に対する昭和四八年六月二三日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分しその三を原告六名の、その余を被告両名の負担とする。

四  この判決の第一項は、仮に執行することができる。

事実

第一申立

(原告ら)

一  被告両名は各自、原告新井ふくに対し一、六五八万六、六一〇円及び内一、四八八万六、六一〇円に対する昭和四八年六月二三日以降支払済に至るまで年五分の割合による金員を、原告新井美登里、同新井まゆみ、同新井靖に対し各一、〇二八万〇、三一二円及び内九三八万〇、三一二円に対する昭和四八年六月二三日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を、原告新井勇、同村山みさ子に対し各三六万三、三三三円及び内三三万三、三三三円に対する昭和四八年六月二三日以降支払済みに至るまで年五分の割合による各金員を支払え。

二  訴訟費用は、被告らの負担とする。

との判決並びに仮執行の宣言。

(被告ら)

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

との判決。

第二主張

(原告ら)

「請求原因」

一  事故の発生

昭和四五年一〇月四日午前九時一五分頃、埼玉県東松山市大字古東九九六番地先路上において、被告神崎は小型貨物自動車(以下「加害車」という)を運転して川越方面から東松山方面にかけて進行していて先行車(大型貨物車)を追越した際ハンドル操作を誤り対向車線に進入し、同車線を対向して来た訴外新井和一運転の軽貨物自動車(以下「新井車」という)の左前部に衝突させ、よつて約四五分後に訴外新井和一(以下「亡和一」ともいう)を頭蓋底骨折により死亡させるに至つた。

二  責任原因

被告株式会社ジヤパレン(以下「被告会社」という)は自動車の賃貸を業とするいわゆるレンタカー会社で加害車を保有していたものであるから自賠法三条により本件事故による原告らの損害を賠償すべき責任がある。

被告神崎は、被告会社から加害車を借受けて自己のため運行の用に供していたものであるからやはり自賠法三条により本件事故による原告らの損害を賠償すべき責任がある。

なお被告神崎が加害車の運行供用者に当らないとしても、同被告は、前方不注意、追越不適当、及びハンドル操作不適当の過失によつて本件事故を発生させたものであるから不法行為者としてやはり賠償責任がある。

三  亡和一の地位、相続関係

亡和一は、昭和七年八月四日生れの健康な男子で(事故当時満三八歳)、酒類食品燃料商を営んでいた。

原告ふくは、亡和一の妻で、原告美登里、同まゆみ、同靖は双方の子である。

さらに事故当時亡和一の父母である新井柳治、新井志さも生存していたところ、新井志さは昭和四六年二月一六日に、新井柳治は昭和四八年一月四日に死亡するに至つた。従つてまず新井志さの相続財産は、夫たる新井柳治、双方の子である原告勇、同村山みさ子、及び亡和一の子である原告美登里、同まゆみ、同靖において相続人あるいは代襲相続人としてそれぞれ相続分に応じて相続した。さらにその後新井柳治の相続財産は、原告勇、同村山みさ子、及び同美登里、同まゆみ、同靖において同様に相続した。

四  損害

(一) 葬儀費用 三五万七、八〇八円

原告ふくにおいて負担した。

(二) 逸失利益 三、八三三万六、四〇六円

亡和一は所得につき青色申告をしていたが、その申告額は極めて控え目なものでその実収入は平均賃金を上回つていたから、賃金センサスによる平均賃金をもつてその収入とみるのが相当であり、六七歳まで就労可能で、生活費は収入の三分の一と認められる。

そうすると亡和一の逸失利益は別紙(一)原告ら算出逸失利益額どおり四、六七五万一、〇七五円であるところ、本訴で右金額を請求する。

(三) 慰謝料 計一、〇〇〇万円

原告ふく 三〇〇万円

原告美登里、同まゆみ、同靖 各二〇〇万円

新井柳治、新井志さ 各五〇万円

なお本件は被告ら側の事情により訴訟の進行が遅れたのであるから、原告らの右慰藉料額の請求は相当である。

(四) 相続関係、損害の填補

右(二)の亡和一の逸失利益については、原告ふくが三分の一、原告美登里、同まゆみ、同靖が九分の二宛それぞれ相続した。

次に右(三)のうち新井柳治、新井志さの各慰藉料は、代襲相続により、原告勇、同村山みさ子が各三分の一宛、原告美登里、同まゆみ、同靖が各九分の一宛それぞれ相続した。

他方原告ふく、同美登里、同まゆみ、同靖は自賠責保険金から五〇〇万円の支給を受けたので、これを各原告一二五万円宛充当する。

(五) 弁護士費用 計四四六万円

原告ふく 一七〇万円

原告美登里、同まゆみ、同靖 各九〇万円

原告勇、原告村山みさ子 各三万円

(六) 残損害総計

原告ふく 一、六五八万六、六一〇円

原告美登里、同まゆみ、同靖 各一、〇二八万〇、三一二円

原告勇、同村山みさ子 各三六万三、三三三円

五  よつて原告らは被告らに対し請求の趣旨のとおり右各残損害及内弁護士費用を除く各損害に対する昭和四八年六月一三日以降各支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める次第である。

「免責の抗弁に対する反論」

被告らの免責の抗弁は争う。本件事故は被告神崎の先行車を追越す際の一方的且つ全面的過失によつて生じたものである。すなわち前記のとおり被告神崎は先行する大型貨物自動車をその右側から追越そうとして加害車を時速五〇ないし六〇キロに加速して右側車線に進入し、大型車と併進状態となつた時、新井車を認めて危険を感じ、あわてて大型車と至近距離で制動措置をとりながら左に大きく転把したため道路左方の畑に落ちそうになり、今度は大きく右に転把したため新井車運転台に右方からほぼ直角の角度で加害車右前部を激突させたものである。

他方亡和一は、折から対向車線上を平常運転中であつたところ、突如右のとおり加害車に衝突されたものであり、かくのごとき事故状況からみて本件事故は被告神崎の追越不適当の一方的且つ全面的過失によつて生じたことは明白で被告らの免責の抗弁は理由がない。

「損益相殺の抗弁に対する反論」

原告ふくが母子年金を受領したことは認めるが、損益相殺することは争う。被告らの主張は最低の保障たる社会保障制度を冒涜する暴論である。

(被告ら)

「請求原因に対する答弁」

請求原因一項中、被告神崎が運転操作を誤つたことは否認するが、加害車が新井車に衝突して訴外新井和一が死亡する事故が生じたことは認める。

同二項中、被告会社がいわゆるレンタカー会社で加害車を保有していたこと及び被告神崎が被告会社からこれを借受けたことは認めるが、事故当時加害者の運行供用者であつたこと、及び本件事故が被告神崎の過失によることは否認する。

同三項の原告らの身分関係については不知

同四項中原告らが自賠責保険金五〇〇万円を受領したことは認めるがその余の事実は不知、損害額については争う。

すなわち原告らは亡和一の逸失利益を平均賃金に基づいて算出しているがこの点は理由がない。原告らは亡和一が自営業者で過少申告をしていたことを根拠としてかかる算出方法によつた旨主張するようであるが、そのような場合でも実際の所得が立証できれば実所得を逸失利益算定の基礎とするのが多くの取扱いであり、過少申告をしていたことのみをもつて平均賃金によるべき理由はないのである。のみならず、亡和一は妻たる原告ふくと協同して酒類、食品、燃料商を営んでいたのであり、同原告においてその営業につき三〇%程度の寄与をしていたと認められる。かかる事情を勘案すると亡和一の昭和四五年当時の生活費を控除した実収入は三一万円と推認され、これに年八%の賃金上昇率を加算して同人の逸失利益を算出するのが相当なところである。

次に慰藉料として原告らは総額一、〇〇〇万円を請求しているが、本件事故は昭和四五年に発生したものであり、そうすると原告らの精神的苦痛は甚大なものであろうが、時の経過とともにその苦痛は次第に癒やされることもまた事実である。現時点で和一を失なつたのであれば原告らの請求額もある程度理解できるが、昭和四五年に生じた本件事故に関してはその請求は不合理といわざるを得ない。

「免責の抗弁」

被告神崎は、加害車を運転して川越市方面から熊谷市方面に進行中、同一方向に時速四〇キロ位にて先行中の大型貨物車をその右側から追越そうとしたのであるが、その際接近する対向車のないことを確認したうえ、時速六〇キロ位にて同車と約一メートルの間隔をとつて追越しにかかり、対向車線に進入して右先行車と併進した頃、対向車線の前方約一七〇メートルの地点に新井車が進行して来るのを発見したが、同車との間には相当距離があつたし、また先行車を完全に追抜いていたので安全に自車線に入れると信じて右先行車の前面に進出するため左転把し徐々に戻つて行き完全に自車線に入つた直後右先行車は突然加速して加害車の左側ボデイ後部に追突して来たのである。その衝撃により被告神崎はハンドル操作の自由を失い道路左側の畑に転落せんとしたのでこれを避けるため反射的に右転把したところ横滑り状態で対向車線に進出して新井車と衝突するに至つたものである。

以上の次第で被告神崎は道路交通法に準拠した運転をして追越しをしたもので何等の過失はない。本件は追越された先行車の道路交通法二七条一項二項に違反する運転に起因するものであり、追突された後の被告神崎の運転操作不能は不可抗力、少なくとも緊急避難行為であつて違法性を欠き、もちろん責任を阻却される。

加害車に構造上の欠陥または機能の障害がなかつたことは明らかである。

よつて被告らが運行供用者だとしても自賠法三条但書により免責されるべきである。

「損害相殺の抗弁」

原告らは亡和一の死亡により国民年金法の規定により昭和四五年一〇月から同五二年六月まで合計一五二万六、五四〇円の母子年金を国から支給された。

さらに原告らは、原告靖が満一八歳に至るまでの一一年間にわたり合計四〇二万〇、九〇〇円の支給を受けることになつており、これにつき中間利息を控除して現価に引直すと三〇三万六、二八八円となる。

これらは損益相殺として原告らの損害から控除さるべきである。

第三証拠関係〔略〕

理由

(責任関係)

一  請求原因一、二項中、加害車が対向車線に進入した原因についてはともかく、原告ら主張の日時、場所で対向車線に進入した加害車とこれに対向して来た新井車が衝突して新井和一が死亡するに至つた本件事故が生じたこと、被告会社が自動車の賃貸を業とするいわゆるレンタカー会社で加害車を保有していたこと及び被告神崎は被告会社から加害車を借受けて運転中本件事故が生じたものであること、の各事実は当事者間に争いがない。

そうすると被告神崎は加害者の借受人として本件事故当時これが運行供用者の地位にあつたことになる。また右のごとき事実関係からすると被告会社において加害車に対する支配を失なつたとの特段の事情が認められない限り事故当時においても被告会社が加害車の運行供用者の地位にあつたとみて相当なところ、成立につき争いのない甲第二号証被告神崎修本人尋問の結果によれば、同被告は当時都内新宿区に居住していて東松山市内に家を新築中のところこれを見に行くため加害車を事故当日限り被告会社から借受けたというのであるから、被告会社が加害車に対する支配を失つたとの事情はなく、よつて被告会社もやはり加害車につき運行供用者の地位にあつたと認められる。

右の次第であるから被告らは、その免責の抗弁が認められない限り自賠法三条により本件事故による原告らの損害を賠償すべき責任があることになる。

二  しかるところ被告らは本件事故は、加害車において先行する大型貨物車の追越しを完了した直後同車が加速して加害車に追突し、その衝撃により被告神崎は運転操作不能になつて対向車線に進入するに至り、よつて新井車と衝突に至つたものであり、従つて事故はこの先行大型車の一方的過失に起因しており被告神崎には過失はないので被告らは自賠法三条によつて本件事故に関し免責される旨主張する。そして被告神崎はその本人尋問の結果中で本件事故に至る経緯につき右主張と同旨の供述をする一方成立につき争いのない乙第一六ないし第一八号証によれば、同被告に対する本件事故についての刑事被告事件(浦和地方裁判所熊谷支部昭和四七年(わ)第二七四号業務上過失致死等被告事件、以下単に「本件刑事々件」という)においても同被告は同様の供述をしている。

しかしながら本件刑事々件において裁判所の命により作成された鑑定書等からすると先行車の追越し状況が被告神崎の指示、説明するとおりだとしても、加害車が加速して先行車を追越しにかかり併進状態となるとほぼ同時位にこの先行車も加速にかかつたのであるが、被告神崎においてこの先行していた大型車の速度の点を考慮しないまま自車線に戻るべくその前方に進入したことが窺え、被告ら主張のごとく加害車において追越しを完了した時点で大型車が加速したことのみが事故の原因であるとは認め難いのである。

三  以下この点を詳説するが、まず事故の大要、現場の道路状況、各車両の走行関係、事故直後の模様等についてみておくに、前記乙第一六ないし第一九号証、成立につき争いのない乙第三号証、同第四号証の一ないし九、同第七号証の一ないし一九、同第九ないし第一一号証、同第一四号証、証人柏原佑子、同田中美穂治の各証言、被告神崎修本人尋問の結果によれば、事故の概要は、国道二五四号線上を川越市方面(南側)から下り車線を進行して来た加害車が先行していた大型車を追越して自車線に入つた直後大型車と接触して滑走を始め上り対向車線に進入し、よつて熊谷市方面(北側)から対向して来た新井車及びその後続車たる柏原佑子運転の軽乗用車(以下「柏原車」という)に衝突したものであること、さらに

(一)  現場付近の道路は、平坦でアスフアルト舗装され、歩車道の区別はないが、両側に白線で区切られた路側帯が設けられているところ、両路側帯の白線間の幅員は約六・三メートルで中央に白線が引かれており、他方両側の路側帯はいずれも幅員五〇センチ位であること。道路両側は桑畑となつており、路面より五〇センチ位低いこと。なお事故当時雨が降つていて路面は湿潤していたこと

(二)  加害車のごとく川越市方面から下り車線を進行して来ると、S字型の坂道を経て直線に入り、そこから二〇〇メートル位走行して事故現場に至るが、同地点から熊谷市へは約二〇〇メートル位直線であるが、その先は左カーブとなつていること。従つて本件事故現場を中心に川越市方面、熊谷市方面へといずれも二〇〇メートル位は直線で見通しは良いこと。

(三)  加害車はまず新井車と衝突し、これを右側桑畑に押し出し、さらにその約一六メートル熊谷市よりの対向車線ほぼ中央で柏原車と衝突したこと、衝突により柏原車は押し戻されて車首を右に向け自車線を塞ぐような恰好で停止し、加害車は進行方向右側(東側)の桑畑に後部を落とし、前部を路面に置いて停止し、新井車は加害車のすぐ後の所に川越市方面を向き車体左側を下にした状態で横転していたこと。

(四)  各車両の損傷状況であるが、加害車は左前部から左前面フエンダーにかけ大きく凹み前部左タイヤはパンクし、右側面は大きく凹んでフロントガラス等は破れ使用不可能の状態となつており、左前部から左側面フエンダーの破損箇所に新井車の灰色塗料が付着していたこと。新井車は前部は後に押しつぶされ窓ガラスは全部破れ使用不能の状態となつていたこと。柏原車は前部が若干押しつぶされて小破していたこと。

(五)  加害車と新井車が衝突した付近の加害車の前方にあたる路上に一面に広い範囲でガラス等の小片が散乱していたが、スリツプ痕等は認められなかつたこと。

(六)  警察官は、事故の連絡を受けて一五分位して現場に赴いたのであるが、到着時には、加害車の運転手被告神崎、新井車の運転手亡和一、同乗者の高橋栄重、及び柏原車の運転手柏原佑子ら事故の直接関係者はすべて病院に運ばれており、また加害車が追越した大型車もその場から逃走していたこと。

そこで警察官は、柏原車の後方二〇メートル位のところを追従していて事故を目撃した河野豊のみから事故状況の説明を受けて実況見分をおこなつたのであるが、しかるにこの時河野豊は加害車にとつては対向車線にあたる上り車線を走行した加害車がそのまま上り車線を走行していた新井車と正面衝突したと考えていてその旨の指示説明をしたこと。その結果かかる事故状況であることを前提として実況見分がなされ、そのため新井車、加害車が横転、停止していたのと反対側の道路脇の状況については警察官らはまつたく注意を払わなかつたこと。

の各事実が認められる。

四  事故直後の状況は右のとおりであつたところ前掲各証拠によればその後警察官において柏原佑子、被告神崎から事情を聞いたところ、加害車において先行大型車を追越して自車線に戻つた直後滑走を始め一旦左側道路脇に落ちそうになり、反転して対向車線に進入して新井車と衝突したことが判明した。その段階でも捜査官らは被告神崎において運転操作を誤つて事故に至つたものと判断していたところ、さらにその後被告神崎において追越されてハンドルを取られたように思うと申立てるようになり、そこで加害車を点検したところ左後部に陥没痕が認められ、さらにその後の捜査あるいは本件刑事々件での証拠調の結果、事故直後下り車線道路脇の桑畑に熊谷市方面に向つて斜めに突つ込んでいた大型貨物車が存在していたことが判明するに至つた。そのため本件刑事々件においては被告神崎において先行車を追越して自車線に戻る際に運転操作を誤つて加害車を大型車に接触させるに至つたのか、それとも被告らの主張するとおり加害車において追越しを完了して自車線に戻つた直後大型車において加速して加害車後部に追突したため被告神崎において運転操作不能となつて本件事故に至つたのかが争いとなり、被告神崎立会のもとに検証がなされ、また二度にわたつて裁判所より加害車あるいは先行車の速度、走行経緯及び衝突状況等についての鑑定が命ぜられている。

五  右の次第で本件刑事々件は、事故発生についての被告神崎の過失の存否についてはもちろん、捜査の妥当性等種々の点が争いとなり錯綜するところとなつた。しかし本訴にあつては前記のとおり被告らは加害者の運行使用者であり従つて被告神崎の先行車を追越した所為につき過失がなかつたとの証明がない限り責任を負う立場にある。そこでかかる観点から被告神崎の追越し状況あるいは提出された証拠について検討することとする。

しかるところ加害車左後部に陥没痕があることが判明した後の昭和四六年二月四日に警察官による被告神崎立会の実況見分の調書(成立につき争いのない乙第六号証の一、三)には、追越し状況についての被告神崎の指示説明として、加害車において先行車の追越しを開始して約九〇メートル位進行した地点で対向して来る新井車を認めて自車線に戻ろうとした旨記載してあり、この指示説明からすると加害車において対向車たる新井車を見て急拠自車線に戻ろうとしたため被追越車両と接触するに至つたとも窺えるのである。

さらに証人柏原佑子は、前記乙第一一号証、乙第六号証の一、成立につき争いのない乙第六号証の二(以上いずれも柏原佑子の本件刑事々件での証人尋問調書、同証人立会の実況見分調書)あるいは当法廷において、同証人が目撃したところでは加害車は不意に先行する大型車の右に出て追越しを図り、対向車を認めて急に大型車の前に入つた途端滑走を始めたとして大型車との接触が加害車の無理な追越しにある旨の供述をする。

しかるに被告神崎は、同被告立会の右実況見分調書(乙第六号証の一、三)の指示説明については、実況見分の際警察官において同被告の言い分をとりあげてくれなかつたとしてその記載内容を争い、また証人柏原佑子の供述についてはその信びよう性を争つている。そして本件刑事々件での裁判所の検証(前記乙第七号証)、被告人尋問(前記乙第一六ないし第一八号証)及び本訴での本人尋問において先行車の追越し状況につき次のとおりであると供述する。

すなわち加害車は、時速四〇キロ位で先行大型車に約一〇メートル位の車間距離をとつて追従していたが、S字型坂道を過ぎて直線道路に入つたので時速約六〇キロ位に加速して大型車の右側に出て一メートル位の間隔をとりながら対向車線を走行して追越しにかかり約四八メートル進行して同車と併進するに至つた時前方約一七〇メートルのところに新井車を認めたが危険はなかつたので、そのままさらに約三二メートル進行した時大型車の前方約五メートルの所に出ていた。

そこで徐々に左に転把しながら約四四メートル進行して自車線に戻つたところ衝撃を受けてハンドル操作を失ない滑走を始め新井車らと衝撃に至つたというものである。

六  ところで前記のごとき事故現場及び事故後の状況及び前記乙第七号証、成立につき争いのない乙第一二、第一三号証によれば、被告神崎の妻の親族にあたる瀧瀬進において本件事故を聞き同日正午頃事故現場に赴いたところ、既に加害車、新井車、柏原車は取り片付けられていたが、これら車両が停止したのと道路反対側にあたる下り車線の路肩に大型車のものとみられるタイヤ跡があつて凸んでおりそこから熊谷方面に斜めに新らしいタイヤの踏み跡があつたのを認めたこと、同人の記憶ではその長さは一八メートル位で周囲に踏み跡がないので大型車はそのまま後退して走り去つたと思われるとのことであり、また同人及び同じく被告神崎の妻の親族にあたる田中和吉は、同被告から被追越車両に追突されたように思われると聞かされ、加害車の損傷状態を点検したところ後部左端に長さ一尺二寸位、幅七、八寸、深さは最大の所で三、四寸という陥没痕を認めたとのことなのでこれら事実、さらに事故直後の現場の写真(前記乙第四号証の四ないし九)、関係車両の損傷状況の写真(成立につき争いのない乙第二号証の一ないし七)等の資料をもとに、前記のとおり本件刑事々件について裁判所において二回にわたつて鑑定が命ぜられ鑑定書が作成された。うちひとつは鑑定人樋口健治の昭和五〇年三月一九日付鑑定書(成立につき争いのない乙第一八号証、以下単に「樋口鑑定」という)であり、他のひとつは鑑定人江守一郎の昭和五一年四月二〇日付鑑定書で、同鑑定人については本件刑事々件で証人として尋問がなされている(成立につき争いのない乙第二二、第二三号証、以下これらを一括して「江守鑑定」という)。

右のうち樋口鑑定は、加害車後部左側に残された陥没痕から先行していた大型車を八トンのダンプカーではないかと推測しており、そうすると加害車の車長は四・六九メートルで、先行車の車長は六・四五メートルということになりその合計は一一・一四メートルとなること、加害車後部のテールライトのモールが後方に曲損しており、陥没痕が後部の方が深くなつていることから接触は大型車より加害車の速度の方が大きい時に生じた可能性が大きいと推測している、さらに各車両の損傷状況から接触時の加害車の速度を時速約五五キロと推定し、また大型車については前記のごとき瀧瀬進らが認めたタイヤ痕等に鑑み接触時の速度を時速五五キロ位と推定し、そして本件事故の態様を、時速四〇キロ位で大型車に追従していた加害車が、時速六〇キロに加速してこれを追越しにかかり、併進状態から加害車の運転席が大型車の前に出た時に被告神崎において追越しが完了したとして自車線に戻つたのであるが、他方この時先行車の方も時速五五キロ位に加速しており、加害車が自車線に戻るため少し左に転把したことにより減速し、そのため衝突に至つた旨結論づけている。従つてこの鑑定の結論は、被告神崎が被追越車を完全に追越していないのにその前方に進入したことが事故の原因であることを示唆しているものである。

さらに同鑑定は、大型車は急に加速できるものではなく、前記のとおり被告神崎の供述どおりとすると加害車は大型車の前方約四メートル位先に出てから約四四メートル進行して同車と接触したことになるが、この間に大型車が時速六〇キロから全力加速しても毎時一〇キロ位しか加速できず、この走行距離この加速の程度では大型車が四ないし五メートル先にいた時速六〇キロで走行している加害車に追いつくことはないとしている。

次に江守鑑定であるが、同鑑定は、加害車後部左側に残された陥没痕から、加害車、大型車のいずれの速度が大きかつたかを判別することはできないとし、各車両の損傷状況、道路脇に残されたタイヤ痕が一八・八メートルであることを前提として接触時の速度を加害車が時速六〇キロ、大型車が時速六五キロと推定しているが、同鑑定も時速四〇キロで走行している大型車が加速して、四ないし五メートル前方を時速六〇キロで走行している加害車に追いつくには加速しながら約二五〇メートル走行することが必要であり、従つて被告神崎が供述するように加害車が時速六〇キロで約四四メートル走行する間に、時速四〇キロで進行していた大型車が加速して加害車に追いつくことはないと判断している。そして同鑑定は、被告神崎を含め関係者の供述は信ぴよう性が少ないとし、前記のごとき接触時の加害車、大型車の速度から、さして根拠はないが加害車が追越しを開始した時の大型車の速度は時速五〇キロ位であり、加害車が時速六〇キロに加速して追越しを始めると同時に大型車も加速したが、大型車は加速が遅いため一旦加害車が前に出て約九〇メートル走行して加害車が自車線に戻ろうとした時に大型車が追いついて来て接触が生じたとみるのが妥当であると判断しており、その根拠のひとつとして八トンの大型ダンプカーがトツプギアの状態で時速五〇キロから六〇キロに加速するのに七〇メートル余の距離を要することを挙げている。従つてこの鑑定の結論からすると加害車において大型車の追越しをかけた直後から大型車は加害車を追いあげていたのに被告神崎においてその点を看過して大型車の前に進入したことになる。

七  そうすると右樋口鑑定、江守鑑定ともその内容は異なるも被告神崎の先行車の追越しが不適当であることを窺わせる結論を出しているわけであるが、かかる鑑定結果をそのまま採用しないにしても右両鑑定がともに承認している事故状況、加害車、大型車の走行状況等を前提とすると、追越し状況が被告神崎の供述どおりだとしても、同被告が大型車の前方に進入した点につき過失がなかつたとは認め難いことになる。

すなわち被告神崎の前記追越し状況の供述からすると、加害車は時速六〇キロで大型車と併進状態となり、さらに約三二メートル進行した時に大型車の前方約五メートルの所に出ていて、さらに左転把しながら約四四メートル進行して自車線に戻つた時に接触されたことになる。右両鑑定とも時速六〇キロで進行する加害車の後方四ないし五メートルの地点を時速四〇ないし五〇キロで走行していた八トンダンプカーが四三メートル走行する間に加速して加害車に追いつくことは不可能であることは明らかであるとしている。従つて大型車が右速度で進行していたにもかかわらず加害車と接触したとすれば、加害車において左転把して減速したのにこの点を考慮しないまま自車線に戻つたため接触に至つたと推認され、被告神崎にこの点の過失があつたことになる。

加害車が急速に減速したことは認められないので結局大型車は加害車が四ないし五メートル前に出る以前から加速していたと推認されるのである。しかるところ被告神崎の供述からすると加害車は大型車と併進してから約七六メートル走行してから同車と接触したことになるが、この距離は、江守鑑定において時速五〇キロで走行している八トンダンプカーが六五キロに加速するに要する距離としている七〇メートル余とほぼ一致する。

右のごとき点を考慮すると被告神崎の供述どおりだとしても、加害車が大型車と併進するに至つたのとほぼ同時位に時速五〇キロ位で走行していた大型車も加速を始めたのであるが、大型車のため加速が遅く、そのためそのまま一旦加害車がその前方に出たもののその後徐々に大型車が加害車に追いついて来る状態であつた、しかるに加害車が自車線に戻つたため接触に至つたことになる。そうだとすると被告神崎の供述するとおりの追越し状況であり且つ大型車の加速によつて接触が生じたとしても、同被告は約七〇メートルにわたつて大型車が徐々に追上げて来ているのに気付かないまま加害車を自車線に戻しそのため接触に至つたことになる。

そうすると加害車において追越しをかけ併進状態となつたのに加速した大型車に事故の原因があるとはいえ、右のごとき加害車の走行状況からするとこれに気付かなかつた被告神崎に過失がないとは認め難いところである。よつて被告らの自賠法三条但書の免責の抗弁はその余の点を判断するまでもなく理由がないこととなり、被告らは本件事故による原告らの損害につき賠償責任を負うものである。

(損害関係)

一  亡和一の生年月日、職業及び原告らとの身分関係、亡和一の父母の死亡の経緯等が請求原因三項で主張するとおりであることは、成立につき争いのない甲第三ないし第六号証及び原告新井ふく本人尋問の結果により認めることができる。従つて亡和一の財産及び同人の父母である新井柳治、新井志さの財産は原告ら主張のとおり相続により承継されるに至つたものである。

次に死亡当時の亡和一の収入であるが原告新井ふく本人尋問の結果によれば、当時亡和一方の酒屋は同人において外回りの仕事を、原告新井ふくにおいて店番をして営まれていたこと、及び成立につき争いのない甲第七号証の一、二(事故前の昭和四五年三月一〇日東松山税務署受付の新井和一方の昭和四四年分所得税青色申告決算書)によれば、右亡和一方酒屋の同年内の売上金額から原価を差引いた荒利益は二九六万二、七〇七円で、亡和一の給与三五万六、〇〇〇円を含む経費を差引いた決算額が一二〇万四、一二七円であるところ、そこから専従者給与として新井志さ(当六一歳)に二四万八、〇〇〇円、原告新井ふくに二八万円が支払われ、最終的な所得金額は六八万八、八七二円となつていることが認められる。

右の各給与、所得額のうち新井志さの専従者給与は同女の年齢に鑑みその大半が名目的なもので、実質は亡和一、原告新井ふくの給与であつたと推認され、他方所得金額については原告新井ふくの寄与分があると認められる。亡和一方の前記営業形態、家庭構成等に鑑み、新井志さの専従者給与のうち一五万円を亡和一の収入とみて相当であり、また所得金額のうち五分の一程度は原告新井ふく寄与分があり、亡和一の収入は五五万一、〇〇〇円位と推認される。

そうすると亡和一の昭和四四年の収入は、自身の給与三五万六、〇〇〇円、新井志さの専従者給与の内の一五万円、所得金額のうち自身の収入である五五万一、〇〇〇円の合計一〇五万七、〇〇〇円程度であつたと窺われる。この収入は、昭和四五年賃金センサスと対照すると男子労働者学歴計の平均賃金(年収一〇二万六、九〇〇円)をやや上回り且つ同年齢の労働者の平均賃金(年収一二二万七、二〇〇円)の八割六分程度にあたるが、本件事故がなければ亡和一はその後も少なくともこの程度の収入をあげることができたと認められる。

二  そこで右のごとき事実を前提として本件事故による原告らの損害を算定する。

(一)  葬儀費用 二八万円

原告新井ふく本人尋問の結果により成立の認められる甲第二一号証、同本人尋問の結果によれば、亡和一の葬儀費用として同原告が三五万円余を負担したことは認められるが本件事故による損害として認められるのは右金額をもつて相当とする。

(二)  亡和一の逸失利益 三、〇〇八万七、三〇〇円

前記のごとき事故前の亡和一の収入状況からすると本件事故なかりせば同人は原告らが基準時としている昭和四八年八月まで同年齢の男子労働者の平均賃金の八割六分を下回らない収入を得ることができたと認められ、その後も稼働可能の六七歳になるまで平均すれば最新の資料たる昭和五二年度賃金センサスの男子労働者学歴計の平均賃金たる年収二八一万五、三〇〇円を下回らない収入があつたと推認して相当である。

亡和一の生活費は原告らの主張する収入の三分の一をもつて相当とし、昭和四九年以降の逸失利益についてはライプニツツ方式によつて現価に引直すのを相当とする。そうすると別紙(二)逸失利益算出表のとおり亡和一の逸失利益は三、〇〇八万七、三〇〇円(一〇〇円未満切捨)となる。

(三)  慰藉料 計七五四万円

本件事故の態様、特に亡和一は事故の一方的被害者であること、亡和一と原告らとの身分関係、及び現在に至るまで被告らとの関係では原告らは自賠責保険金のほか特に填補を受けていないこと等諸般の事情に鑑み慰藉料としては

原告ふく 二五〇万円

原告美登里、同まゆみ、同靖 各一五〇万円

新井柳治、新井志さ 各二七万円

をもつてそれぞれ相当とする。

(四)  相続関係

前記のごとき亡和一と原告らとの身分関係からすると右のうち亡和一の逸失利益及び(三)慰藉料のうち新井柳治、新井志さの慰藉料は原告ら主張の割合で各原告に相続された。よつて各原告の損害額は次のとおりとなる。

原告ふく 一、二八〇万九、一〇〇円

(内亡和一の逸失利益相続分一、〇〇二万九、一〇〇円)

原告美登里、同まゆみ、同靖 各八二四万六、〇六六円

原告勇、同村山みさ子 各一八万円

(五)  損害の填補

原告らが自賠責保険金五〇〇万円の支給を受けたことは当事者間に争いがなく、そして原告らはこれを原告ふく、同美登里、同まゆみ、同靖の各損害につき一二五万円宛充当する旨主張する。この充当関係は相当なので右自賠責保険金については右方法により充当することとする。

次に新井ふくが夫和一の死亡により国民年金法に基づきこれまで母子年金一五〇万四、二四〇円を受領したことは弁論の全趣旨によれば原告らの自認するところである。国民年金法二二条には、死亡事故が第三者の行為によつて生じた場合においては、政府が保険給付をしたときは政府はその給付の限度で受給権者が第三者に対して有する損害賠償請求権を代位取得する一方、受給権者が第三者から同一の事由について損害賠償を受けたときはその価格の限度で給付の責を免れる旨規定されている。かかる規定からすると政府の年金給付責任は被告らの賠償責任と相互補完の関係にあるとみられ、よつて政府が右のとおり母子年金を給付して被告らに対し損害賠償請求権を取得した限度で受給権者たる原告ふくの被告らに対する損害賠償請求権を失うと解される。

そうすると原告ふくは右損害の填補分一二五万円及び母子年金受給分一五〇万四、二四〇円を控除され、原告美登里、同まゆみ、同靖は一二五万円を控除されることになり、残りの損害額は次のとおりとなる。

原告ふく 一、〇〇五万四、八六〇円

原告美登里、同まゆみ、同靖 各六九九万六、〇六六円

原告勇、同村山みさ子 各一八万円

(六)  弁護士費用

本件訴訟の内容、審理の経過、認容額等に鑑み、弁護士費用のうち本件事故による損害と認められるのは左の金額をもつて相当とする。

原告ふく 八〇万円

原告美登里、同まゆみ、同靖 各五〇万円

原告勇、同村山みさ子 各二万円

(七)  残損害総計

原告ふく 一、〇八五万四、八六〇円

原告美登里、同まゆみ、同靖 各七四九万六、〇六六円

原告勇、同村山みさ子 各二〇万円

三  よつて原告らの本訴請求は、被告両名各自に対して原告ふくにおいて一、〇八五万四、八六〇円及び内弁護士費用を除く一、〇〇五万四、八六〇円に対する本件事故後である昭和四八年六月二三日以降支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合の遅延損害金の原告美登里、同まゆみ、同靖においてそれぞれ七四九万六、〇六六円及び同じく内六九九万六、〇六六円に対する昭和四八年六月二三日以降支払済みに至るまで年五分の割合による遅延損害金の、原告勇、同村山みさ子においてそれぞれ二〇万円及び同じく内一八万円に対する昭和四八年六月二三日以降支払済みに至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度でいずれも理由があるのでこの限度で認容し、その余の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して主文のとおり判決する次第である。

(裁判官 岡部崇明)

(一) 原告ら算出逸失利益額

(A) 昭和45年から同52年までの亡和一の得べかりし収入

合計 1,738万2,516円

内訳(該当年齢の賃金センサス男子労働者学歴計平均賃金による)

(1) 昭和45年(38歳) 30万6,800円

(8万0,800円×12+25万7,600円)×3/12

(2) 昭和46年(39歳) 139万1,200円

9万0,300円×12+30万7,600円

(3) 昭和47年(40歳) 171万6,000円

10万9,600円×12+40万0,800円

(4) 昭和48年(41歳) 200万5,600円

12万9,900円×12+44万6,800円

(5) 昭和49年(42歳) 249万9,800円

15万9,900円×12+58万1,000円

(6) 昭和50年(43歳) 288万7,300円

17万9,500円×12+73万3,300円

(7) 昭和51年(44歳) 313万5,800円

20万0,300円×12+73万2,200円

(8) 昭和52年(45歳) 344万0,016円

(20万2,700円×12+75万2,800円)×1.08

〈前年の8分増として計算〉

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(6)+(7)+(8)=1,738万2,516円…………………合計

(B) 昭和53年以降67歳までの収入

合計 4,675万1,075円

67歳までの21年間昭和52年の年収―前記(8)―を1.06倍した額を見込まれるので、これをライプニツツ方式により現価に引直す。

344万0,016円×1.06×12.8211(ライプニツツ係数)=4,675万1,075円……………………合計

(C) 亡和一の逸失利益

合計 4,275万5,720円

生活費として収入の三分の一を費消するとみてこれを控除

{(A)+(B)}×(1-1/3)=4,675万1,075円……………………合計

(二) 逸失利益算出表

(A) 昭和45年から同48年までの亡和一の得べかりし収入

合計 466万0,856円

内訳(各年原告らが別紙(一)で主張している額の8割6分相当となる)

(1) 昭和45年(38歳) 26万3,848円

30万6,800円×0.86

(2) 昭和46年(39歳) 119万6,432円

139万1,200円×0.86

(3) 昭和47年(40歳) 147万5,760円

171万6,000円×0.86

(4) 昭和48年(41歳) 172万4,816円

200万5,600円×0.86

(B) 昭和49年以降亡和一が67歳に達した年までの同人の収入の現価

合計 4,047万0,219円

281万5,300円×14.3751(26年ライプニツツ係数)

(C) 亡和一の逸失利益

合計 3,008万7,382円

生活費として収入の三分の一を費消するとみる

{(A)+(B)}×(1-1/3)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例